大久野島は、たくさんのうさぎが暮らす「うさぎの島」として知られています。
しかし、この小さな島には、かつて日本陸軍が毒ガスを製造していた歴史があります。島内には現在も、毒ガス工場に電力を供給していた発電所跡や毒ガス貯蔵庫跡、砲台跡など、当時の戦争遺構が残されています。
私自身、大久野島を訪れる前からこの歴史に興味があり、実際に島を歩いて毒ガス資料館や戦争遺構を見学してきました。
この記事では、大久野島で行われていた毒ガス製造の歴史や毒ガス資料館、発電所跡をはじめとする戦争遺構について、実際に見学した体験を交えながら紹介します。
「大久野島の廃墟を見てみたい」「うさぎだけではない島の歴史を知りたい」という方は、ぜひ参考にしてください。
大久野島と毒ガス製造の歴史
現在は「うさぎ島」として知られる大久野島ですが、島にはかつて日本陸軍の毒ガス製造工場が置かれていました。
大久野島では1929年(昭和4年)から終戦まで毒ガスが製造され、島内には現在も発電場跡や毒ガス貯蔵庫跡など、当時の施設の一部が残っています。
大久野島を歩いていると、うさぎが暮らす自然豊かな風景の中に、突然コンクリート造りの大きな建物や古い軍事施設が現れます。
ここでは、なぜ大久野島で毒ガスが製造されたのか、なぜ「地図から消された島」と呼ばれるのか、そして戦後に何があったのかを簡単に紹介します。
なぜ大久野島で毒ガスが製造された?
大久野島では、1929年に日本陸軍の毒ガス製造工場が設置されました。
大久野島が選ばれた背景には、瀬戸内海に浮かぶ離島で、人目につきにくく、毒ガス製造という軍事機密を管理しやすかったことがあります。
また、大久野島にはそれ以前から軍事施設がありました。1902年には、広島や呉などの軍港を守るために芸予要塞が設置され、島の北部・中部・南部に計22門の大砲が置かれていました。
その後、島には毒ガス工場が建設され、製造に必要な発電施設や貯蔵施設なども整備されました。
現在島内に残っている発電場跡や毒ガス貯蔵庫跡は、こうした毒ガス製造の歴史を伝える遺構です。
大久野島は「地図から消された島」だった
大久野島の毒ガス製造は軍事機密とされていたため、島の存在そのものを国民にも知られないようにする必要がありました。
竹原市の資料によると、1932年頃から大久野島は地図からも消され、「秘密の島」とされていました。
現在では多くの観光客が訪れる大久野島ですが、かつては毒ガスを製造する軍事施設が置かれた島だったのです。
「日本地図から消された島」という言葉だけを見ると少し怖く感じますが、実際に島を歩いてみると、その歴史を物語る建物が自然の中に残されていることに気づきます。
戦後も島に毒ガスの歴史が残る
1945年の終戦後、大久野島に残された毒ガスや関連施設は、GHQの指示によって処理されました。
環境省の資料によると、1946年には大久野島でイペリットやルイサイト、青酸ガスなどの化学処理・焼却処理が行われ、その後も毒ガスや汚染物の処理が続けられました。
毒ガス製造施設についても除毒処理や解体が行われ、施設の残骸が海中に投棄された記録があります。
実際に大久野島を訪れる前、私は「戦後に毒ガスの処理が行われたなら、現在はもう大丈夫なのかな?」と少し気になっていました。
というのも、大久野島では戦後かなり時間が経ってからも、毒ガス関連物が見つかっているからです。
2000年にも島内から旧日本軍の毒ガス容器が発見され、回収・無害化処理が行われています。
旅行中にこのことを知ると、「えっ、割と最近じゃない?大丈夫なの?」と思ってしまいました。
ただし、だからといって現在の大久野島が危険な場所というわけではありません。現在は一般の観光客が訪れる島として整備されており、通常の観光で毒ガスに触れるような状況ではありません。
私自身も3泊4日大久野島に滞在し、島内を歩いて戦争遺構を見て回りましたが、毒ガスによる危険を感じるようなことはありませんでした。
一方で、島に残る戦争遺構の中には、現在も立ち入りが制限されている場所があります。遺構を見学するときは、柵や案内表示など現地の指示に従い、建物の内部などへ勝手に入らないことが大切です。
こうした歴史を知ったうえで島を歩くと、現在の穏やかな大久野島と、かつてここで毒ガスが製造されていたという過去とのギャップを強く感じます。
うさぎが暮らす現在の大久野島と、その過去にあった毒ガス製造の歴史。この2つの顔を知ってから島を歩くと、目の前に残る戦争遺構がまた違って見えてきます。
大久野島毒ガス資料館
大久野島の毒ガス製造の歴史を知るなら、ぜひ立ち寄りたいのが大久野島毒ガス資料館です。

大久野島でかつて行われていた毒ガス製造について、製造工場の歩みや毒ガスの種類、当時使用されていた防護服や作業服などの資料が展示されています。(毒ガス資料館の内部は撮影禁止です。)
▽毒ガス資料館の外にある展示

戦争遺構を実際に見て回る前に資料館を訪れておくと、島に残る建物が何のために使われていたのかを知ることができ、遺構を見たときの印象も変わります。
大久野島毒ガス資料館の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施設名 | 大久野島毒ガス資料館 |
| 所在地 | 広島県竹原市忠海町大久野島 |
| 開館時間 | 9:00~16:30 |
| 休館日 | 年末年始 |
| 入館料 | 大人150円 |
| アクセス | 大久野島桟橋から徒歩約10分 |
※開館時間や休館日、料金などは変更される場合があるため、訪問前に最新情報をご確認ください。
大久野島毒ガス資料館を実際に見学した感想
私自身、大久野島を訪れる前から、島の「うさぎ」だけでなく、かつてここで行われていた毒ガス製造の歴史に興味を持っていました。
そのため、毒ガス資料館は今回の旅行でも楽しみにしていた場所のひとつです。
館内には、大久野島の毒ガス工場の歩みや、製造されていた毒ガスの種類、防護服、工員の手帳、毒ガス容器、女子用・男子用の作業服など、当時の様子を伝えるさまざまな資料が展示されていました。
大久野島では、特にイペリット(マスタードガス)をはじめとする毒ガスが製造されていました。
製造現場では多くの被害者が出ており、展示されていた防護服を見ても、当時の作業が決して安全なものではなかったことが分かります。
「毒ガスを扱うなら、防護服を着ていれば大丈夫だったのでは?」と思ってしまいますが、実際には防護服だけで十分に防ぐことはできませんでした。
工員が使っていた手帳なども展示されていて、毒ガス製造が単なる「軍の施設」ではなく、実際にそこで働いていた人たちの生活と結びついていたことを感じました。
そして、私が特に印象に残ったのが「ふ号作戦」についての展示です。
「ふ号作戦」とは、和紙などで作った大型の気球に爆弾を積み、ジェット気流を利用してアメリカ本土へ飛ばそうとした日本軍の作戦です。
「気球に爆弾を積んでアメリカまで飛ばそう」という発想自体に驚きました。
大久野島の発電場跡は、もともと1929年から1945年まで毒ガス製造工場に電力を供給していた施設ですが、戦争末期の1944年11月から1945年4月まで、ここで「ふ号作戦」に使用する気球を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていたそうです。
当時使われた気球は、動員された女学生たちが和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作っていました。
現在は廃墟のように残っている発電場跡が、毒ガス製造だけでなく、戦争末期には風船爆弾にも関わっていたことを資料館で知り、「この建物でそんなことまで行われていたのか」とかなり印象に残りました。

実際に歴史を知った後に島内の毒ガス関連遺産・戦争遺産を見ると、さらに楽しめると思います。
また、館内には大久野島だけでなく、世界で使用された毒ガス兵器についての展示もあります。
毒ガスによって被災した人々の写真なども展示されており、かなり衝撃的な内容でした。
一方で、資料館を出て島を歩けば、そこにはいつもの大久野島の風景があります。
戦争の歴史を伝える資料を見て重い気持ちになったあと、外に出るとうさぎが歩いていて、その姿に少し癒されました。
なお、資料館ではうさぎが毒性・耐性・暴露実験に使われていたことについても触れられていました。
ただし、これは毒ガス製造の時代に実験などに使われていたうさぎについての話で、全羽処分されているので、現在大久野島に暮らしているうさぎとは全く別のものです。
歴史を知ると少し重い気持ちになる一方、資料館を出ればうさぎが暮らす穏やかな風景が広がっています。毒ガス資料館前にいたうさぎたち▽

過去の歴史と現在の島の姿が隣り合っているからこそ、私は大久野島を「うさぎを見るだけの島」ではなく、過去と現在が共存している島として印象に残りました。
大久野島に残る毒ガス関連の戦争遺構
大久野島には、かつて毒ガスを製造していた時代の施設が、現在もさまざまな形で残っています。
発電所跡や毒ガス貯蔵庫跡など、当時の建物の一部が廃墟のような姿で残されており、島を歩いていると自然の中に突然、古いコンクリートの建物が現れることもあります。
また、毒ガス製造だけでなく、島を守るために造られた砲台跡など、毒ガス工場が建設される以前からの戦争遺構も残っています。
ここでは、私が実際に大久野島を歩いて見学した遺構を、それぞれがどのような施設だったのか、現在どのような姿で残っているのかを紹介します。
毒ガス資料館で歴史を知ってから遺構を見て回ると、現在は使われていない古い建物も、かつてここで行われていたことを想像しながら見ることができます。
発電所跡
大久野島の戦争遺構のなかでも、特に目を引くのが発電所跡です。
大きなコンクリート造りの建物が木々の中に残っていて、廃墟になっています。

この建物は、1929年から1945年まで、大久野島の毒ガス製造工場に電力を供給していた発電場です。
当初はディーゼル発電機3台が設置されていましたが、1933年に3台、1934年にさらに2台が増設され、最終的には8基のディーゼル発電機が設置されていました。
発電機は重油を燃料としていました。1941年には忠海から海底ケーブル2本による受電も始まり、発電設備と併用して工場の電力をまかなっていたそうです。
そして、この発電所跡には、もうひとつ印象的な歴史があります。
1944年11月から1945年4月まで、ここで「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の気球部分を膨らませ、弱い部分を補修する作業が行われていました。
「ふ号作戦」は、日本軍が大型の気球に爆弾などを搭載し、偏西風を利用してアメリカ本土へ飛ばそうとした作戦です。
大久野島で毒ガスを製造していた発電所で、戦争末期にはまったく別の兵器である風船爆弾にも関わる作業が行われていたと知ると、この建物の歴史の重さを改めて感じます。
風船は、動員された女学生たちが和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作っていたとされ、発電所跡ではその気球を膨らませて状態を確認する「満球テスト」などが行われていました。
なお、発電所跡の廃墟は老朽化が激しく危険なことから立ち入り禁止柵が設置されています。

人は立ち入ることができませんが、うさぎたちは中に立ち入って追いかけっこのようなことをしていました!
毒ガス関連施設・貯蔵庫跡
大久野島には、発電所跡だけでなく、かつて毒ガスの製造や保管に使われていた施設の跡も複数残っています。
現在は建物の一部やコンクリートの台座などが残るだけの場所もありますが、当時ここで何が行われていたのかを知ってから見ると、単なる古い建物とは違って見えてきます。
ここでは、私が実際に見て回った研究所跡、三軒家毒ガス貯蔵庫跡、長浦毒ガス貯蔵庫跡を紹介します。
研究所跡
毒ガス工場があった大久野島には、毒ガスの研究や検査などを行う施設もありました。
現在残っている研究所跡は、当時の研究室や薬品庫、検査工室などがあった場所です。毒ガス製品の検査や、機密書類の保管などにも使われていたとされています。

研究所跡は休暇村大久野島のすぐそばにあります。内部にはいることはできません。
大久野島では、現在の観光客が歩く遊歩道のすぐ近くに、こうした毒ガス製造に関わる施設が残っています。
「ここで実際に毒ガスの研究や検査が行われていた」と考えると、現在の穏やかな島の風景とのギャップを感じる場所です。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡
三軒家毒ガス貯蔵庫跡は、製造された毒ガスを貯蔵していた施設の跡です。
ここには2つの部屋があり、それぞれに約10トンの毒ガスを入れられるタンクが置かれていました。製造された液体の毒ガスはパイプを通してタンクへ送られ、保管されていたとされています。

特に、ここで貯蔵されていた毒ガスのひとつがイペリット(マスタードガス)です。
現在はタンクそのものは残っていませんが、タンクを置いていた台座を見ることができます。
人の背丈ほどもある大きなタンクが置かれていたと考えると、当時の施設の規模が少し想像できます。
休暇村大久野島の広場近くにあり、比較的見つけやすい戦争遺構です。
(立ち入り禁止柵があり、人間は立ち入ることはできないようになっていました。)
長浦毒ガス貯蔵庫跡
大久野島に残る毒ガス関連の遺構の中でも、特に規模が大きいのが長浦毒ガス貯蔵庫跡です。
山に埋め込むように造られた島内最大の毒ガス貯蔵庫で、当時は約100トンの容量を持つタンクが6基置かれていました。

戦後、この貯蔵庫に残っていた毒ガスや残留毒素の処理が行われました。
その際には、薬品による処理だけでなく、火炎放射器を使って焼却する方法もとられています。
そして、現在も貯蔵庫の内部を見ると、コンクリートの壁が黒く焼け焦げたようになっている部分があります。
この黒い跡は、戦後に火炎放射器で残留毒素を焼却処理した際の痕跡とされています。
実際に見ると、この真っ黒になった壁がかなり印象的でした。
「戦後に毒ガスを処理した」という文章だけでは想像しにくいですが、焼け焦げた跡が現在も残っていることで、当時どのような処理が行われたのかを目で見ることができます。
また、戦時中には貯蔵庫が海から見えないよう、建物の前に高さ3~4mほどの土塁を築いて隠していたとされています。
現在の大久野島では、うさぎが歩く遊歩道沿いに、こうした巨大な毒ガス貯蔵庫跡が残っています。
発電所跡と並んで、大久野島の「廃墟」と戦争遺構を象徴するような場所だと感じました。
(立ち入り禁止柵があり、立ち入りはできないようになっていました。)
砲台跡・要塞跡
大久野島には、毒ガス製造が始まるよりも前から存在していた芸予要塞の砲台跡も残っています。
大久野島に芸予要塞が設置されたのは1902年(明治35年)のことで、広島や呉などの軍港を守るため、島の北部・中部・南部に砲台が造られました。
現在残っている砲台跡や要塞関連施設は、レンガやコンクリートの構造物が自然の中に残る、いわば大久野島の「廃墟」の一つです。
毒ガス工場があった時代とは少し異なる歴史を持つ遺構ですが、大久野島がもともと軍事的に重要な島だったことを知るうえでも興味深い場所です。
中部砲台跡
中部砲台跡は、大久野島の展望台へ向かう道の近くにある砲台跡です。
芸予要塞時代には、ここに28cm榴弾砲が6門設置されていました。日露戦争の際には、そのうち2門が朝鮮半島へ運ばれ、旅順攻撃に使用されたとされています。砲台の近くには兵士が休むための兵舎もありました。

そして興味深いのが、毒ガス製造が始まったあとです。
この兵舎はそのまま残され、毒ガス製造時代には毒ガス製品や原料の置き場として利用されていました。つまり、芸予要塞時代の軍事施設が、その後は毒ガス製造にも使われていたことになります。
私が訪れたときは、他の廃墟と異なり、建物の周囲に立ち入りを制限する柵や案内表示が一切見当たらず、内部まで入れる状態になっていました。
「入っていいのかな?」と思いつつ中に入ってみると、古い建物の内部がそのまま残っていて、かなり印象に残りました。

ただし、これは私が訪れた時点での状況です。旧軍施設への立ち入りについて安全上の注意が案内されているため、訪問時は必ず現地の柵や案内に従ってください。
北部砲台跡
北部砲台跡には、芸予要塞時代に8門の大砲が設置されていました。
現在はレンガ造りの砲台や砲側庫などが残っており、大久野島に残る戦争遺構の中でも、当時の姿を想像しやすい場所です。設置されていた12cm速射加農砲は、実際には使用されなかったとされています。

ただ、北部砲台跡には毒ガス製造時代の歴史もあります。
毒ガス工場があった時代には、ここにルイサイトの大きな毒ガスタンクが置かれていました。戦後の処理でタンクが焼却された結果、1996年にヒ素汚染が確認され、その後土壌の洗浄処理が行われています。
「砲台跡」と聞くと、毒ガスとは別の施設に思えますが、大久野島では軍事要塞として使われた場所が、後に毒ガス製造にも利用されていたことが分かります。
南部照明所跡
大久野島の南側には、南部照明所跡も残っています。

ここは芸予要塞時代に、夜間に海面を照らして敵艦を探知するための探照灯(サーチライト)が置かれていた場所です。
現在は、探照灯を設置していた電灯井の部分や、その下にある部屋などが残っています。
砲台そのものではありませんが、砲台と同じく島を守るために造られた軍事施設です。
遠くからしか見ることができない、かつ、行くまでに階段と坂道を登る必要があるので、個人的には時間に余裕があればで良いと思います!
南部照明所跡に行くには、休暇村大久野島近くの階段を登っていきます。▽

毒ガス製造の歴史を知ったあとにこうした遺構を見ると、大久野島が一時期だけ軍事利用されたのではなく、明治時代から戦争と深く関わってきた島だったことが分かります。
現在は自然に囲まれ、うさぎが歩く穏やかな島ですが、その中にはこうした古い軍事施設が静かに残されています。
大久野島神社と毒ガス障害死没者慰霊碑
大久野島を歩いていると、戦争遺構だけでなく、島の歴史を今に伝える大久野島神社や毒ガス障害死没者慰霊碑にも出会います。
大久野島神社は島内にある小さな神社で、周囲を自然に囲まれた静かな場所にあります。

また、島には毒ガス製造に関わった人々の犠牲を伝える毒ガス障害死没者慰霊碑が建てられています。
大久野島では毒ガスの製造過程で多くの人が健康被害を受けました。戦争が終わってからも、その影響に苦しんだ人々がいたことを忘れてはいけません。

発電所跡や貯蔵庫跡などを見て回ると、つい「廃墟」や「珍しい観光スポット」として遺構に目が向きます。
しかし、慰霊碑を前にすると、これらの施設が実際に多くの人々の犠牲や苦しみと関わっていたことを改めて感じます。
大久野島の戦争遺構を巡る際には、建物や廃墟を見るだけでなく、こうした場所にも立ち寄って、島に残る歴史について考えてみるのもおすすめです。
防空壕
大久野島には、戦時中に造られた防空壕も残っています。
防空壕は、空襲などの危険から身を守るために造られた施設です。現在は使われていないため、島の自然の中にひっそりと残る姿を見ることができます。
大久野島ビジターセンターのそばにある、幹部防空壕跡▽

毒ガス製造施設や砲台跡などに比べると目立たない存在ですが、防空壕もまた、大久野島が戦争と深く関わっていたことを伝える遺構のひとつです。
こうした遺構を見ると、大久野島には「うさぎの島」という現在の姿だけではない、もうひとつの歴史があることを感じます。
大久野島は心霊スポット?怖い場所なの?
大久野島は、かつて毒ガスが製造されていた歴史があり、現在も発電所跡や貯蔵庫跡などの廃墟となった戦争遺構が残っていることから、心霊スポットとして検索されることがあります。
実際に古い建物や防空壕、砲台跡を歩いていると、場所によっては独特の雰囲気を感じるかもしれません。
ただ、私自身が3泊4日で大久野島に滞在してみて、「心霊スポットで怖い島」という印象はまったくありませんでした。
島にはたくさんのうさぎが暮らしていて、海や山の自然も豊かです。日中に島を歩いていると、戦争遺構が残っている場所でも、すぐ近くでうさぎが遊んでいることもありました。
もちろん、大久野島には決して忘れてはいけない重い歴史があります。
毒ガス製造によって健康被害を受けた人々がいたことや、戦争に関わる施設が島中に残されていることを知ると、ただ「廃墟がある島」として楽しむべき場所ではないとも感じます。
私にとって大久野島は、怖い場所というよりも、過去の歴史と現在の穏やかな風景が共存している島でした。
戦争遺構を見るときは少し立ち止まって、その場所で何が行われていたのかを知る。そして外に出れば、うさぎがのんびりと暮らしている。
その対比もまた、大久野島という島の印象を深くしているように思います。
まとめ|大久野島の戦争遺構から毒ガス製造の歴史を知る
大久野島には、かつて毒ガス製造が行われていた歴史があり、現在も島内には発電所跡や毒ガス貯蔵庫跡、砲台跡、防空壕など、さまざまな戦争遺構が残されています。
特に発電所跡は、大久野島の毒ガス工場を支えていた重要な施設であり、現在は大きな建物が廃墟のような姿で残っています。
島を実際に歩いてみると、現在の穏やかな風景の中に、戦争の時代を伝える建物が自然に囲まれて残されていることに気づきます。
大久野島を訪れるなら、かわいいうさぎとの出会いを楽しむだけでなく、ぜひ毒ガス資料館や戦争遺構にも足を運んでみてください。
過去にこの島で何が行われていたのかを知ることで、現在の大久野島の風景も、また少し違って見えてくるはずです。
大久野島には、戦争遺構のほかにも、たくさんのうさぎや瀬戸内海の自然など、さまざまな魅力があります。島内の見どころや観光スポットをまとめて知りたい方は、こちらの記事も参考にしてください。
▶大久野島観光ガイドはこちら